Sincerely's Blog

フェミニズムについて、ゼロから学んだことのメモ。

伯父の話 2

私が憶えているかぎりの、伯父との関わりを書き出してみる。私が生まれてから、伯父はずっとニートだった。

 

物心ついてから、祖父母の家に遊びに行くと、よく「おじさん」が顔を出した。

「あぁ、Sちゃん。こんにちは」

伯父は少し寂しそうな笑顔でいつも挨拶した。正月など、一緒にご飯を食べる時もあったが、いつもほとんど話さず、食べ終わるとすぐに自分の部屋に戻って行った。

 

たまに、「これあげようか」と、石ころや自分の陶芸作品をくれることもあった。石ころは鉱物の標本だったのだと、高校生になってから知った。伯父がそれらをくれるたびに、祖母は「Jちゃん(伯父の名)、そんなんあげたかて女の子喜ばへんよ」と笑った。母は困ったように「良かったわね」と言ったが、それらに触れようとはしなかった。私はその石を綺麗だと思ったものの、やがて捨ててしまった。

 

何かの折に、祖父母と伯父と一緒に外食したことがある。おそらく、親戚の葬儀か何かだったのだろう。少し高級な雰囲気のレストランで、私は伯父の向かい側に座っていた。食事が終わり、大人たちが話をしている横で私はおとなしく待っていた。退屈しているように見えたのかもしれない。

「Sちゃん、見ててごらん」

伯父は、ストローの袋を細かく折り畳み、それにコップの水を少しだけ垂らした。ストロー袋は芋虫のようにゆっくりと動いた。

「へー」

それまでそんなトリックを見た事のなかった私は、少し面白いと感じた。しかし、横から祖母に「Jちゃん、そんなんで遊ばんといて。子どもやあるまいし」とたしなめられ、伯父はあいまいな笑みを浮かべてその芋虫を指で押しやった。私は、結局あの芋虫が物理学的にどういう仕組みで動くのか、今も知らないままだ。

 

伯父はよくピアノを弾いた。リチャード・クレイダーマンが十八番だった。ふらりと居間に現れては、見事な指使いで流麗な演奏を披露した。拍手をすると、嬉しそうに弾き続けることもあれば、なぜかぷいと部屋に戻ってしまうこともあった。クラシックのレコードをたくさん持っていた。

 

「おじさんはね、禁治産者なんだよ」

ある時、伯父が少し自虐的な調子で言ったのを覚えている。

 「きんちさんしゃ?」

「お金を自分で管理することが出来ないんだ」

確か、ある年の夏休み、お盆だったような気がする。親と祖父母が墓参りの支度をしている間、手持ち無沙汰だった私は、伯父の部屋の前で大人たちを待っていた。伯父は嬉しそうに、自分が最近作ったというラジコンのようなおもちゃを見せてくれた。基板に小さなモーターと車輪のついたそのロボットは、絨毯の上をジージーと小さな音をたてて動き回った。

 

小学校高学年になっていた私は、よく分からない「おじさん」に興味があった。みんながおじさんと距離をおいているのをうすうす感じ取っていて、かわいそう、と思っていた。ロボットには全く興味がわかなかったが、「これ作ったの?すごいねー。もっと作って売れば?」と言った。伯父は嬉しそうだったが、やや自嘲的な調子でさきほどの言葉を口にした。

「他にもあるよ。見ますか?」

それまで伯父の部屋に入ったことがなかったので、私はわくわくしてうなずいた。

 

6畳ほどの和室は、布団と本棚があるだけだった。本で読んだ、明治時代の書生部屋みたいだなと思った。伯父が見せてくれたのと同じような作りかけのラジコンが2、3個、ラジカセ、そして読みかけらしい本とノートが転がっていた。

窓辺に、それだけ部屋と不釣り合いな、大きな地球儀があった。ロボットよりは地球儀の方が面白そうに思えたので、私はそれを回して眺めていた。伯父は所在なさげに、自分のロボットたちをいじっていた。

 

「Sちゃん、どこにいるの?」母の声がした。

「ここだよー」と答えると、母が部屋の入り口に姿を表した。見た事のない、強張った表情をしていた。「おじさんと遊んでたの?」と母は聞いた。

「うん」私が言うと、母は「そう、でももう準備できたから、あっち(居間)に行きましょ」と固い調子で言った。母の有無を言わせぬ様子に気圧され、私は「ありがと、おじちゃん」と言うと部屋を出た。伯父は何かもごもごと言っていたが、聞き取れなかった。

廊下で、母は「おじさんの部屋に入っちゃだめよ」と強い語気で言った。私は叱られたと感じて「ごめんなさい」と言い、自分から入ったんじゃないのにな、と思った。

今では、あの瞬間の母が感じたであろう恐怖や、その時に取った行動も理解できる。しかし、それが伯父を不用意に傷つけた可能性があることも、同時に想像できるのだ。

 

それ以外は、もうほとんど思い出がない。私自身、祖父母の家に行く機会が減っていたし、伯父はいつも外出しているか、自分の部屋に引きこもっていた。私が行くと、わざと避けるように外出していくことすらあった。 

 

最後に会ったのは、おそらく大学生の頃だと思う。伯父さん、太ったな、と思った。薬の影響もあるのか、伯父の顔は土気色にむくんで生気がなく、体つきも中年のそれになっていた。かつての理知的でナイーブな雰囲気は跡形もなく消えていた。

「こんばんは」

交わしたのはその一言だけだ。その一言ですら、とても事務的な、慇懃無礼な言い方だった。昔はもう少し、「どうですか、学校は」とか、「いくつになりましたか」という会話があったのに。伯父は目すら合わそうとしなかった。

 

数年後、伯父は脳梗塞で倒れた。