Sincerely's Blog

フェミニズムについて、ゼロから学んだことのメモ。

伯父の話 5

葬儀に参列したのは、ごくごく身内の近親者だけだった。密葬にしたわけではない。しかし、伯父の友人との繋がりは極めて限られており、連絡のとりようもなかった。ひとりだけ年賀状のやりとりをしていた友人がいたようだが、彼の住所しか分からなかったため、連絡ができなかった。

 

10人程度のささやかな告別式を終えた後、妹がぽつりと言った。

「おじちゃんのことって、結局誰も知らなかったんだね」

どういう意味?と私は訊き返した。

「だって、あの場所にいた人全員、おじちゃんと親しかった人なんて誰もいない。おばあちゃんはそりゃ、おじちゃんのことよく見てただろうけど、あの中におじちゃんが心を開いて語り合えた人なんて誰もいなかったんだよ。おじちゃんの研究してきたことも、病気のことも、人生のことも、好きな音楽や本のことも。私だって知らない。お姉ちゃんも知らないでしょ。パパだってそんなに仲良かったわけじゃないし。おじちゃんって、ずっとずっと一人だったんじゃないかな」

 

妹の言葉を聞いて、私も考えた。頭が良く、優秀な学生として将来を嘱望されていた伯父。頭脳明晰だった彼が、その優秀さゆえに周囲に溶け込めず、優秀さゆえに精神を病み、そのまま40年間を無為に過ごすことになった。そして、その非生産的な生活の結果として生活習慣病からくる脳梗塞で倒れ、半身不随になり身体の自由を奪われた生活を3年間強いられた。あげくその臨終で、彼の人生を狂わせ、彼を最も苦しませたであろう脳が最初に死に、結果として脳死状態に陥ったというのは、本当に皮肉なことだと思った。でも最も皮肉なのは、これほど数奇な人生を生きた彼のことを、ほとんど誰も知らず、そして誰も理解できないという事実だと思った。伯父さんは、日々何を想って生きていたのだろう?

  

世界を動かすような研究者になれたかもしれない彼が、若い時期わずかな挫折に陥っただけで、その後の人生を禁治産者として生きなければならなかった、その空しさは想像するにあまりある。

もちろん、病気のために自分の思うような人生を生きられなかった、という人は世の中に少なくないだろう。でも伯父のケースを考えると、「もしかしたら、別の可能性があったかも知れないのに」と思わずにはいられない。そんなWhat if?を考えても意味がないのは充分わかっているのだけれど。

現在であれば、精神疾患に対しても様々な治療法があり、周囲の人間がどう対応すべきかという情報もインターネットなどでいくらでも手に入る。互助グループもマニュアルもあるし、社会復帰もことさら困難なことではないと思う。

 

伯父が罹患した時期がもう少し遅ければ。祖父がもう少し伯父に対して優しく接していれば。祖母が伯父の異変にもう少し早く気付いていれば。伯父がもう少し社交的で、心を許せる友人がいれば。世間がもう少し弱者を受け入れられる時代であれば。そして日本が、もう少し優しい社会であったなら。

ほんのわずかな「もう少し」のズレが生み出した運命の隙間に囚われ、動けなくなってしまった伯父。誰にでも起こりうる、その悲劇の恐ろしさを思わずにはいられない。

 

山ほどある伯父の蔵書のジャンルは多岐に渡っていたが、しかし、精神疾患に関する本は一冊もなかった。人生哲学の本を除けば、自己啓発本も全くなかった。伯父は、自分の身に起こったことを理解しようとは思わなかったのだろうか?あれだけ「勉強」が好きだった伯父が、自分の病状に関する本を一冊も保管していなかったことに、私は彼の意志を垣間見るような気がする。

 

母が時々つぶやいていた言葉を思い出す。

「お母さんはね、あの人とっても幸せな人生だと思うの。だって、毎日何もしなくていいんだもの。ピアノを弾いて、陶芸や絵を描いて、本を読んで。世の中にそんな暮らしができる人が何人いると思う? おじさんは恵まれてるわ」

その類いまれな頭脳で、伯父は何を思い、何を考えていたのだろう。伯父にしか分からない、何か特別な観念や使命、はては幸せのような感情が存在したのだろうか。

孤独。無為。空虚。しかし、伯父の人生を姪の私がそう形容することが正しいのかどうか、私には分からない。私は、私の意志とは関係なく彼の人生を垣間見ることになった、ごく薄いつながりの傍観者でしかない。

 

ただ、その薄いつながりを通して、伯父は私の記憶の中で生き続けてゆくし、私は伯父の話をこの先も語り継いで行きたいと思う。それが、"たまたま偶然が重なったおかげで"健常者として今も生きている私から、伯父さんへのささやかな手向けになればと思う。