Sincerely's Blog

フェミニズムについて、ゼロから学んだことのメモ。

伯父の話 4

生身の伯父と最後に会ったのはおそらく、6年も前のことになる。その後は、たまに電話で声を聞くだけだった。老人ホームに入居した伯父は、祖母へ時おり電話をしてきた。伯父からの電話は、すぐにそれとわかった。半身不随の彼は、話し始めるまでに、一瞬の沈黙があるからだ。

「あぁ……Jですけど……」

弱々しいかすれ声で、伯父は名乗った。次に言うのは、祖母の所在に対する質問だと私は知っていた。なぜならそれが、彼がこの世でたった一人コミュニケーションをとりたいと思っている相手だからだ。

「……おかあさんは……」 

それだけ言うのもかなりの努力を要するのだろうと察せられる、たどたどしい発音だった。

私が答えるのは、「ちょっと待って下さいね」か、「いま、買物に出かけてます」 のどちらかだった。後者の場合は、

「……あぁ……そうですか、はい……」

と言って、伯父から切ってしまうのが常だった。伯父はスマホやパソコンはおろか、携帯も持っていなかったので、外界とのコミュニケーションはもっぱら電話と手紙だった。伯父が介護施設に入居した際に、父が「何か要るものはあるか」と本やDVDを持って行くことを提案したが、「何も要らない」というのが伯父の返事だった。

 

伯父が亡くなった後、遺品を整理した。書籍以外の、彼の私物は本当に少なかった。衣装ケース2箱分の衣類、段ボール2箱分の書類、数冊のアルバム、数十枚のCD、その程度だった。

 

その他には、いくつかの絵画や陶芸の作品が残されていた。引きこもっていた伯父は一時期美術に熱中し、デッサンや油絵を習いに行っていたらしい。また、陶芸もしばらくの間続けていたそうだ。しかし、それらに傾倒していた期間の長さに較べて、残されている作品の数はおどろくほどわずかだった。祖母によると、自分の作品に納得することは少なく、常に自嘲的なコメントとともに捨ててしまっていたらしい。

 

ピアノの好きだった伯父だが、引っ越す時にピアノも処分してしまっていた。ただ、遺品の中から、伯父が自分で自分の演奏を録音したカセットテープが出て来た。家族の誰も知らなかったことだった。曲名と録音時間が几帳面に記入されたそのカセットは、伯父の性格を物語るようだった。父は「そのカセット、僕にくれ」と言い、書斎にこもるとヘッドフォンで長い時間それを聴いていた。父が泣いたのを見たのは初めてのことだった。

 

アルバムには、若い頃の旅行の写真が多く保存されていた。アメリカ、トルコ、アフリカ、ヨーロッパ……伯父自身の映っているものはそれほど多くなかったが、彼のはにかんだ笑みと少し緊張したような表情は、私の記憶の中にあるものと同じだった。

 

年をとってからの写真は、ほとんど残されていなかった。発病後の伯父が人生の大半を過ごしたのは、小さな6畳の自室と、家の近くにある美術教室、スナック、喫茶店、かかりつけ医など、半径5kmくらいの範囲だったからだ。

それでも、私の七五三や弟のお食い初めなどの写真はわずかばかり残されていた。確実に成長して行く私や弟妹を見て、伯父はどう感じていたのだろうと思う。何事も達成できず年老いて行く自分に落ち込んだだろうか。それとも、単調で希望のない日々の中の、ささやかな癒しを感じただろうか。写真の中で私や弟を抱く伯父は、不器用そうに微笑んでいた。