Sincerely's Blog

フェミニズムについて、ゼロから学んだことのメモ。

伯父の話 1

伯父の話 1

伯父が他界した。介護施設で暮らしていたのだが、食べ物を気管につまらせ、そのまま意識不明となり、脳死を経てついに帰らぬ人となった。外国に居る私は、家族と相談して、彼の葬儀には出席しないことになった。

 

危篤の報せを受けてから、伯父のことについていろいろと考えていた。そして、彼について私が知っている限りのことを文章にして、インターネット上に書き残しておこうと思った。彼の人生は、誰かにとっては、もしかしたら何かの意味があるかも知れないと思ったからだ。いや、きっと意味があると信じている。

 

興味を煽るような見出しをつけるとすれば、『エリートコースを歩んでいた東大理系院生が、メンヘラになり40年間ニートで過ごした結果、半身不随を経て脳死判定された話』とでもなるのだろう。でもそれは彼の人生の一面でしかない。私が見た伯父は、純粋で不器用で傷つきやすい、ごく普通の男性だった。だからこのエントリのタイトルは、シンプルに『伯父の話』だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

私は彼について多くのことを知らない。そして、これ以上知る機会は永遠に失われてしまった。伯父の若い頃について私は、母や祖母から聞いたことしか知らない。父も祖父も、そして伯父自身も、昔の話は一切しなかった。

 

伯父は幼い頃から頭が良く、府下トップクラスの公立高校を首席で卒業後、京都大学に進学し、修士を得て東京大学の博士課程に進んだ。物理学の研究をしたかったらしい。

 

祖父は関西で小さな工作機械の会社を経営しており、いずれは伯父に跡を継がせるつもりだったようだ。祖父は厳しい人だった。商人らしく実学志向で、よく言えばストイックな、悪く言えばかなり吝嗇な人だったと、祖母は語った。子供の頃から、伯父は祖父に対して反抗したことはおろか、口答えすらしたことがなかったそうだ。

 

そんな伯父だったが、修士課程中に「博士になりたい」と言い出した。祖父は当初かなり反対したそうだが、伯父は珍しく自己主張し、祖父を説き伏せて東京行きを決めた。

 

おそらく、商売人の祖父に対する、若き日の伯父なりのささやかな反抗だったのだろう。伯父の蔵書を見たことがあるが、宗教や哲学、詩に傾倒していた様子が伺える。マネジメント論や経営者の自伝が大半を占める父の本棚とはまるきり違っていた。「物理学の博士になりたい」という夢は、それまで親の敷いたレールの上を大人しく走って来た伯父が、初めて抱いた自分なりの野望だったのではないかと私は想像する。

 

叔父の若い頃の写真を見たことがある。成田三樹夫に少し似た、神経質そうな面差しの青年だった。派手な印象はしなかったが、それなりに充実した学生生活を送っていたのではないかと思う。バスケットボール部のキャプテンだったと聞いた。

 

母によれば、当時彼に好意を抱く女子学生は少なくなかったようだが、伯父は祖父から異性交遊に関して厳しく戒められていたため、交際に発展するようなことはなかったらしい。 性に関する厳しい抑圧は、生真面目な伯父の性格には重すぎたんじゃないかしらね、と母は言っていた。

 

順調なエリートコースを歩んでいたように見える伯父だが、祖母によれば、東大の院へ進学してから、自分のやりたい研究テーマが見つからず悩んでいたそうだ。これは私の想像だが、博士課程に進んだ伯父は、そこで初めて挫折というものを知ったのではないかと思う。

 

日本の教育システムは、ある特定の知能に恵まれた人間にとっては、とても有利にはたらく。なぜなら、暗記力と理解力、論理的思考能力さえ高ければ、テストで良い点を取ることはたやすいし、それなりの評価が得られる。

 

しかし、大学院はそうではない。発想力、想像力、コミュニケーション能力という異なったベクトルの能力も必要とされる。今までお仕着せで与えられて来た課題の代わりに、自分で研究テーマを見つけ出し、それが社会に与える影響や自分がその研究をする意義、それまでになかった可能性、そういったものを理路整然と説明できなければ、自分の存在意義すらわからなくなる。子供の頃からいわゆるガリ勉だった伯父は、それらの能力をあまり開発できなかったのではないだろうか。

 

祖母によると、伯父は帰省した際に、一度だけ弱音を吐いたことがあるという。

「僕は小さい頃から(勉強が)良く出来る良く出来ると言われて来たけど、東京に行ったら僕なんか凡人や」

優秀な人たちの大多数が一度は感じる挫折だろう。まして伯父の場合、祖父の反対を押し切って博士課程に進学し、研究者になるという夢を追っていたのに、肝心のテーマが見つけられないというのは、相当なプレッシャーだったに違いない。

 

またこの頃ちょうど、父(伯父にとっては弟)と母が結婚し、母は私を身ごもった。父によれば、その頃から伯父は元気をなくし、ふさぎ込む様子が増えたそうだ。余談だが、私の父は伯父ほどずば抜けた成績ではなく、平均的な国立大学を出て、祖父の取引先の小さな会社に勤めていた。自分よりも格下だと思っていた弟が幸せそうな家庭を築いている姿は、未だ独身で異性交遊もままならず、ひたすら先の見えない研究のプレッシャーに苛まれる伯父の目にどう映ったのだろうか。

 

そして伯父は、発狂した。

 

研究室から、「様子がおかしい」という連絡が祖父のもとに入ったそうだ。祖父母が東京に駆けつけた時には、叔父は神経症を発症していた。身なりをはだけさせ、うつろな目をしながら、ろれつの回らない妄言を繰り返していたそうだ。祖父母によって実家に連れ帰られた伯父は、当時でいう「ノイローゼ」と診断され(今でいう神経症だ)、博士課程を中退した。

  

祖母によれば、それでも症状が落ち着いてからは、就職する意欲もあったらしい。祖父の会社で見習いのようなことをしたり、教員免許を取得しようとしていたようだ。しかしどれも続かなかったと聞いた。それは単なる甘えだったのか、自分が精神病患者だという負い目から来る自信のなさによるものだったのかは分からない。ただ、プライドの高かった伯父の性格上、何でも完璧にこなさなければ気が済まず、出来ない自分に耐えられず投げ出してしまうという行動に出てしまったのではないかと思う。

 

また、本来ならば物理学の研究者になりたかったのに、それ以外の「金を稼ぐ」という(いわば俗な)ことに対して自分の時間と努力を傾けるのを、過去の自分に対して裏切りのように感じていたのかも知れない。

 

現在であれば、精神疾患についても多くの研究があり、伯父のような状態の患者に対しても、治療法や対処法が様々に提案できるだろう。しかし1980年代初頭には、まだそこまで精神医学も発達しておらず、世間は「精神異常」「キチガイ」という目で伯父を見ていた(と母は言っていた)。

 

いったん踏み外したレールになんとか戻ろうとする努力もむなしく、叔父はそのまま40年近くをニートとして生きることになる