Sincerely's Blog

フェミニズムについて、ゼロから学んだことのメモ。

伯父の話 5

葬儀に参列したのは、ごくごく身内の近親者だけだった。密葬にしたわけではない。しかし、伯父の友人との繋がりは極めて限られており、連絡のとりようもなかった。ひとりだけ年賀状のやりとりをしていた友人がいたようだが、彼の住所しか分からなかったため、連絡ができなかった。

 

10人程度のささやかな告別式を終えた後、妹がぽつりと言った。

「おじちゃんのことって、結局誰も知らなかったんだね」

どういう意味?と私は訊き返した。

「だって、あの場所にいた人全員、おじちゃんと親しかった人なんて誰もいない。おばあちゃんはそりゃ、おじちゃんのことよく見てただろうけど、あの中におじちゃんが心を開いて語り合えた人なんて誰もいなかったんだよ。おじちゃんの研究してきたことも、病気のことも、人生のことも、好きな音楽や本のことも。私だって知らない。お姉ちゃんも知らないでしょ。パパだってそんなに仲良かったわけじゃないし。おじちゃんって、ずっとずっと一人だったんじゃないかな」

 

妹の言葉を聞いて、私も考えた。頭が良く、優秀な学生として将来を嘱望されていた伯父。頭脳明晰だった彼が、その優秀さゆえに周囲に溶け込めず、優秀さゆえに精神を病み、そのまま40年間を無為に過ごすことになった。そして、その非生産的な生活の結果として生活習慣病からくる脳梗塞で倒れ、半身不随になり身体の自由を奪われた生活を3年間強いられた。あげくその臨終で、彼の人生を狂わせ、彼を最も苦しませたであろう脳が最初に死に、結果として脳死状態に陥ったというのは、本当に皮肉なことだと思った。でも最も皮肉なのは、これほど数奇な人生を生きた彼のことを、ほとんど誰も知らず、そして誰も理解できないという事実だと思った。伯父さんは、日々何を想って生きていたのだろう?

  

世界を動かすような研究者になれたかもしれない彼が、若い時期わずかな挫折に陥っただけで、その後の人生を禁治産者として生きなければならなかった、その空しさは想像するにあまりある。

もちろん、病気のために自分の思うような人生を生きられなかった、という人は世の中に少なくないだろう。でも伯父のケースを考えると、「もしかしたら、別の可能性があったかも知れないのに」と思わずにはいられない。そんなWhat if?を考えても意味がないのは充分わかっているのだけれど。

現在であれば、精神疾患に対しても様々な治療法があり、周囲の人間がどう対応すべきかという情報もインターネットなどでいくらでも手に入る。互助グループもマニュアルもあるし、社会復帰もことさら困難なことではないと思う。

 

伯父が罹患した時期がもう少し遅ければ。祖父がもう少し伯父に対して優しく接していれば。祖母が伯父の異変にもう少し早く気付いていれば。伯父がもう少し社交的で、心を許せる友人がいれば。世間がもう少し弱者を受け入れられる時代であれば。そして日本が、もう少し優しい社会であったなら。

ほんのわずかな「もう少し」のズレが生み出した運命の隙間に囚われ、動けなくなってしまった伯父。誰にでも起こりうる、その悲劇の恐ろしさを思わずにはいられない。

 

山ほどある伯父の蔵書のジャンルは多岐に渡っていたが、しかし、精神疾患に関する本は一冊もなかった。人生哲学の本を除けば、自己啓発本も全くなかった。伯父は、自分の身に起こったことを理解しようとは思わなかったのだろうか?あれだけ「勉強」が好きだった伯父が、自分の病状に関する本を一冊も保管していなかったことに、私は彼の意志を垣間見るような気がする。

 

母が時々つぶやいていた言葉を思い出す。

「お母さんはね、あの人とっても幸せな人生だと思うの。だって、毎日何もしなくていいんだもの。ピアノを弾いて、陶芸や絵を描いて、本を読んで。世の中にそんな暮らしができる人が何人いると思う? おじさんは恵まれてるわ」

その類いまれな頭脳で、伯父は何を思い、何を考えていたのだろう。伯父にしか分からない、何か特別な観念や使命、はては幸せのような感情が存在したのだろうか。

孤独。無為。空虚。しかし、伯父の人生を姪の私がそう形容することが正しいのかどうか、私には分からない。私は、私の意志とは関係なく彼の人生を垣間見ることになった、ごく薄いつながりの傍観者でしかない。

 

ただ、その薄いつながりを通して、伯父は私の記憶の中で生き続けてゆくし、私は伯父の話をこの先も語り継いで行きたいと思う。それが、"たまたま偶然が重なったおかげで"健常者として今も生きている私から、伯父さんへのささやかな手向けになればと思う。

伯父の話 4

生身の伯父と最後に会ったのはおそらく、6年も前のことになる。その後は、たまに電話で声を聞くだけだった。老人ホームに入居した伯父は、祖母へ時おり電話をしてきた。伯父からの電話は、すぐにそれとわかった。半身不随の彼は、話し始めるまでに、一瞬の沈黙があるからだ。

「あぁ……Jですけど……」

弱々しいかすれ声で、伯父は名乗った。次に言うのは、祖母の所在に対する質問だと私は知っていた。なぜならそれが、彼がこの世でたった一人コミュニケーションをとりたいと思っている相手だからだ。

「……おかあさんは……」 

それだけ言うのもかなりの努力を要するのだろうと察せられる、たどたどしい発音だった。

私が答えるのは、「ちょっと待って下さいね」か、「いま、買物に出かけてます」 のどちらかだった。後者の場合は、

「……あぁ……そうですか、はい……」

と言って、伯父から切ってしまうのが常だった。伯父はスマホやパソコンはおろか、携帯も持っていなかったので、外界とのコミュニケーションはもっぱら電話と手紙だった。伯父が介護施設に入居した際に、父が「何か要るものはあるか」と本やDVDを持って行くことを提案したが、「何も要らない」というのが伯父の返事だった。

 

伯父が亡くなった後、遺品を整理した。書籍以外の、彼の私物は本当に少なかった。衣装ケース2箱分の衣類、段ボール2箱分の書類、数冊のアルバム、数十枚のCD、その程度だった。

 

その他には、いくつかの絵画や陶芸の作品が残されていた。引きこもっていた伯父は一時期美術に熱中し、デッサンや油絵を習いに行っていたらしい。また、陶芸もしばらくの間続けていたそうだ。しかし、それらに傾倒していた期間の長さに較べて、残されている作品の数はおどろくほどわずかだった。祖母によると、自分の作品に納得することは少なく、常に自嘲的なコメントとともに捨ててしまっていたらしい。

 

ピアノの好きだった伯父だが、引っ越す時にピアノも処分してしまっていた。ただ、遺品の中から、伯父が自分で自分の演奏を録音したカセットテープが出て来た。家族の誰も知らなかったことだった。曲名と録音時間が几帳面に記入されたそのカセットは、伯父の性格を物語るようだった。父は「そのカセット、僕にくれ」と言い、書斎にこもるとヘッドフォンで長い時間それを聴いていた。父が泣いたのを見たのは初めてのことだった。

 

アルバムには、若い頃の旅行の写真が多く保存されていた。アメリカ、トルコ、アフリカ、ヨーロッパ……伯父自身の映っているものはそれほど多くなかったが、彼のはにかんだ笑みと少し緊張したような表情は、私の記憶の中にあるものと同じだった。

 

年をとってからの写真は、ほとんど残されていなかった。発病後の伯父が人生の大半を過ごしたのは、小さな6畳の自室と、家の近くにある美術教室、スナック、喫茶店、かかりつけ医など、半径5kmくらいの範囲だったからだ。

それでも、私の七五三や弟のお食い初めなどの写真はわずかばかり残されていた。確実に成長して行く私や弟妹を見て、伯父はどう感じていたのだろうと思う。何事も達成できず年老いて行く自分に落ち込んだだろうか。それとも、単調で希望のない日々の中の、ささやかな癒しを感じただろうか。写真の中で私や弟を抱く伯父は、不器用そうに微笑んでいた。

伯父の話 3

もともと糖尿病を患っていた伯父は、脳梗塞で倒れた後、右半身不随となってしまった。独身だったため介護を出来るものもおらず、伯父は60歳にならない若さで、老人介護施設に入居することになった。

 

伯父が介護施設に入居したあと、卒寿を迎える祖母の面倒を見るために、私が祖母と同居することになった。(祖父が死んだ後、祖母と伯父とはかつて住んでいた大きな家を売り払い、小さなマンションで暮らしていた。)伯父の使っていた部屋を整理し、そこに私は起居することになった。

 

引っ越し後、伯父の部屋に入ってまず最初に驚いたのは、その本棚だった。6畳ほどの狭い部屋、片側一面が書棚で埋まっていた。それもインテリアとしてのブックシェルフではなく、大学の研究室にありそうな、スチール製の無味乾燥なものだった。本はほとんどが物理学か数学関連の専門書だった。

 

その他にはパイプベッド、木製の大きな机、そして電子工学部品がいっぱい入ったスチールの棚があるだけの、殺風景な部屋だった。かつて入った、書生部屋のような伯父の居室を思い出した。集合住宅ならではのせせこましい設計と北向きの窓が、現在の伯父の部屋をより陰鬱にしていた。

 

引っ越してしばらくの間、私は伯父の使っていたベッドを使っていた。しかし折りたたみ式パイプベッドのマットレスはへたっており、数週間後に腰が痛くてたまらなくなったので、新しいベッドを買うことにした。

ついでに、部屋にある伯父の私物一切合切を処分することに決めた。理由はうまく言えないが、部屋にいると彼の陰鬱なイメージがそのまま私に乗り移って来るようで、気分が落ち着かなかったのだ。

 

もちろん、勝手に処分するわけにもいかないので、伯父に了解をとることにした。祖母に相談すると、「私から話するわ。Sちゃんから言ったら、あの子遠慮してまうやろから」とのことだったのでお願いした。

 

「机は捨てないでくれ」

それが伯父の頼みだったと聞いた。大学に入学した時に、祖父に入学祝いで買ってもらったものなのだと言う。

それを聞いて私は胸が締め付けられるような気持ちになった。

あの机で、伯父はどれだけ勉強してきたのだろう。勉強することが自分のつとめであり、将来の幸せにつながる行為であると信じ、ひたすらそれに自分の人生を捧げた伯父。青春をすべて費やした、そのまさに勉強によって自分の人生が損なわれたというのに、まだそこに愛着を持ち、心の拠り所としている伯父を思うとやりきれなかった。

 

本棚を整理する作業も、胸に迫るものがあった。専門書の数々。数年間分にわたる応用物理の学術雑誌の山。量子論、電子工学、流体力学、素粒子物理学、「ご冗談でしょう、ファインマンさん」……それらはとりもなおさず、伯父が生きて来た証だった。

 

岩波文庫のかたまりもあった。ドストエフスキー、デカルト、カント、マルクス、カフカ、福沢諭吉、夏目漱石、芥川龍之介……「戦争と平和」5巻は几帳面に順番通り並んでいた。

 

「法然と親鸞」「ブッダ」といった本もあった。鬱病を患っていた伯父が、宗教に救いを求めたのも当然かと思われた。

 

また、「子どもと行く遊び場」「すくすく子育て」などの育児関連の本があるのもなぜか悲しく思われた。おそらく、父が再婚して弟(伯父にとっては甥)が出来た時に、伯父が一生懸命弟と関わろうとして買ったのだろう。

 

それらをすべて段ボール箱に押し込みながら、伯父は何でも「勉強」する人だったのだ、と私は思った。「勉強」こそが彼が世界と関わる方法だったのだろう。自分の置かれた境遇に当惑し、解決方法を探して迷い苦しむ中で、彼が自分の信じる「勉強」という方法で出口を見つけようとした、その過程がまざまざと感じられるようで、私は息苦しくなった。

 

もちろん、今のようにインターネットがない時代、本屋に行き、その分野の本を読む事で私たちはかつて情報を手に入れていた。ただ伯父の場合、まっさらな生身の彼自身でこの世界と向き合う、そこで生まれるナマな感情を受け入れ表現する、ということがことさら苦手だったのかもしれないと思う。あるいは、本を読んで「勉強」さえすれば、このわけのわからない世界に条理をつけ、理解し、対応していけると信じていたのだろうか。

 

本棚を運び出し、スペースのあった廊下に配置した。本棚に入り切らず、もう読まないであろうと思われる本はブックオフに売った。電子部品の入ったラックは物置へ、衣類は衣裳ケースにまとめて押し入れの奥へ仕舞った。

 

部屋の照明を蛍光灯から白熱灯に変え、ラグマットと木目のベッド、そしてローテーブルを配置すると、部屋は見違えるように明るくなった。私は伯父の気配を完璧に消し去った自分に多少の後ろめたさを感じながらも、すっかり居心地のよくなった部屋に深い満足感を味わった。そしてふと思った。伯父さんは、発病してから今まで、こういう心地よさを感じたことはあったのだろうか?

 

伯父が亡くなった今も、本棚は廊下に静かに佇んでいる。

伯父の話 2

私が憶えているかぎりの、伯父との関わりを書き出してみる。私が生まれてから、伯父はずっとニートだった。

 

物心ついてから、祖父母の家に遊びに行くと、よく「おじさん」が顔を出した。

「あぁ、Sちゃん。こんにちは」

伯父は少し寂しそうな笑顔でいつも挨拶した。正月など、一緒にご飯を食べる時もあったが、いつもほとんど話さず、食べ終わるとすぐに自分の部屋に戻って行った。

 

たまに、「これあげようか」と、石ころや自分の陶芸作品をくれることもあった。石ころは鉱物の標本だったのだと、高校生になってから知った。伯父がそれらをくれるたびに、祖母は「Jちゃん(伯父の名)、そんなんあげたかて女の子喜ばへんよ」と笑った。母は困ったように「良かったわね」と言ったが、それらに触れようとはしなかった。私はその石を綺麗だと思ったものの、やがて捨ててしまった。

 

何かの折に、祖父母と伯父と一緒に外食したことがある。おそらく、親戚の葬儀か何かだったのだろう。少し高級な雰囲気のレストランで、私は伯父の向かい側に座っていた。食事が終わり、大人たちが話をしている横で私はおとなしく待っていた。退屈しているように見えたのかもしれない。

「Sちゃん、見ててごらん」

伯父は、ストローの袋を細かく折り畳み、それにコップの水を少しだけ垂らした。ストロー袋は芋虫のようにゆっくりと動いた。

「へー」

それまでそんなトリックを見た事のなかった私は、少し面白いと感じた。しかし、横から祖母に「Jちゃん、そんなんで遊ばんといて。子どもやあるまいし」とたしなめられ、伯父はあいまいな笑みを浮かべてその芋虫を指で押しやった。私は、結局あの芋虫が物理学的にどういう仕組みで動くのか、今も知らないままだ。

 

伯父はよくピアノを弾いた。リチャード・クレイダーマンが十八番だった。ふらりと居間に現れては、見事な指使いで流麗な演奏を披露した。拍手をすると、嬉しそうに弾き続けることもあれば、なぜかぷいと部屋に戻ってしまうこともあった。クラシックのレコードをたくさん持っていた。

 

「おじさんはね、禁治産者なんだよ」

ある時、伯父が少し自虐的な調子で言ったのを覚えている。

 「きんちさんしゃ?」

「お金を自分で管理することが出来ないんだ」

確か、ある年の夏休み、お盆だったような気がする。親と祖父母が墓参りの支度をしている間、手持ち無沙汰だった私は、伯父の部屋の前で大人たちを待っていた。伯父は嬉しそうに、自分が最近作ったというラジコンのようなおもちゃを見せてくれた。基板に小さなモーターと車輪のついたそのロボットは、絨毯の上をジージーと小さな音をたてて動き回った。

 

小学校高学年になっていた私は、よく分からない「おじさん」に興味があった。みんながおじさんと距離をおいているのをうすうす感じ取っていて、かわいそう、と思っていた。ロボットには全く興味がわかなかったが、「これ作ったの?すごいねー。もっと作って売れば?」と言った。伯父は嬉しそうだったが、やや自嘲的な調子でさきほどの言葉を口にした。

「他にもあるよ。見ますか?」

それまで伯父の部屋に入ったことがなかったので、私はわくわくしてうなずいた。

 

6畳ほどの和室は、布団と本棚があるだけだった。本で読んだ、明治時代の書生部屋みたいだなと思った。伯父が見せてくれたのと同じような作りかけのラジコンが2、3個、ラジカセ、そして読みかけらしい本とノートが転がっていた。

窓辺に、それだけ部屋と不釣り合いな、大きな地球儀があった。ロボットよりは地球儀の方が面白そうに思えたので、私はそれを回して眺めていた。伯父は所在なさげに、自分のロボットたちをいじっていた。

 

「Sちゃん、どこにいるの?」母の声がした。

「ここだよー」と答えると、母が部屋の入り口に姿を表した。見た事のない、強張った表情をしていた。「おじさんと遊んでたの?」と母は聞いた。

「うん」私が言うと、母は「そう、でももう準備できたから、あっち(居間)に行きましょ」と固い調子で言った。母の有無を言わせぬ様子に気圧され、私は「ありがと、おじちゃん」と言うと部屋を出た。伯父は何かもごもごと言っていたが、聞き取れなかった。

廊下で、母は「おじさんの部屋に入っちゃだめよ」と強い語気で言った。私は叱られたと感じて「ごめんなさい」と言い、自分から入ったんじゃないのにな、と思った。

今では、あの瞬間の母が感じたであろう恐怖や、その時に取った行動も理解できる。しかし、それが伯父を不用意に傷つけた可能性があることも、同時に想像できるのだ。

 

それ以外は、もうほとんど思い出がない。私自身、祖父母の家に行く機会が減っていたし、伯父はいつも外出しているか、自分の部屋に引きこもっていた。私が行くと、わざと避けるように外出していくことすらあった。 

 

最後に会ったのは、おそらく大学生の頃だと思う。伯父さん、太ったな、と思った。薬の影響もあるのか、伯父の顔は土気色にむくんで生気がなく、体つきも中年のそれになっていた。かつての理知的でナイーブな雰囲気は跡形もなく消えていた。

「こんばんは」

交わしたのはその一言だけだ。その一言ですら、とても事務的な、慇懃無礼な言い方だった。昔はもう少し、「どうですか、学校は」とか、「いくつになりましたか」という会話があったのに。伯父は目すら合わそうとしなかった。

 

数年後、伯父は脳梗塞で倒れた。

伯父の話 1

伯父の話 1

伯父が他界した。介護施設で暮らしていたのだが、食べ物を気管につまらせ、そのまま意識不明となり、脳死を経てついに帰らぬ人となった。外国に居る私は、家族と相談して、彼の葬儀には出席しないことになった。

 

危篤の報せを受けてから、伯父のことについていろいろと考えていた。そして、彼について私が知っている限りのことを文章にして、インターネット上に書き残しておこうと思った。彼の人生は、誰かにとっては、もしかしたら何かの意味があるかも知れないと思ったからだ。いや、きっと意味があると信じている。

 

興味を煽るような見出しをつけるとすれば、『エリートコースを歩んでいた東大理系院生が、メンヘラになり40年間ニートで過ごした結果、半身不随を経て脳死判定された話』とでもなるのだろう。でもそれは彼の人生の一面でしかない。私が見た伯父は、純粋で不器用で傷つきやすい、ごく普通の男性だった。だからこのエントリのタイトルは、シンプルに『伯父の話』だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

私は彼について多くのことを知らない。そして、これ以上知る機会は永遠に失われてしまった。伯父の若い頃について私は、母や祖母から聞いたことしか知らない。父も祖父も、そして伯父自身も、昔の話は一切しなかった。

 

伯父は幼い頃から頭が良く、府下トップクラスの公立高校を首席で卒業後、京都大学に進学し、修士を得て東京大学の博士課程に進んだ。物理学の研究をしたかったらしい。

 

祖父は関西で小さな工作機械の会社を経営しており、いずれは伯父に跡を継がせるつもりだったようだ。祖父は厳しい人だった。商人らしく実学志向で、よく言えばストイックな、悪く言えばかなり吝嗇な人だったと、祖母は語った。子供の頃から、伯父は祖父に対して反抗したことはおろか、口答えすらしたことがなかったそうだ。

 

そんな伯父だったが、修士課程中に「博士になりたい」と言い出した。祖父は当初かなり反対したそうだが、伯父は珍しく自己主張し、祖父を説き伏せて東京行きを決めた。

 

おそらく、商売人の祖父に対する、若き日の伯父なりのささやかな反抗だったのだろう。伯父の蔵書を見たことがあるが、宗教や哲学、詩に傾倒していた様子が伺える。マネジメント論や経営者の自伝が大半を占める父の本棚とはまるきり違っていた。「物理学の博士になりたい」という夢は、それまで親の敷いたレールの上を大人しく走って来た伯父が、初めて抱いた自分なりの野望だったのではないかと私は想像する。

 

叔父の若い頃の写真を見たことがある。成田三樹夫に少し似た、神経質そうな面差しの青年だった。派手な印象はしなかったが、それなりに充実した学生生活を送っていたのではないかと思う。バスケットボール部のキャプテンだったと聞いた。

 

母によれば、当時彼に好意を抱く女子学生は少なくなかったようだが、伯父は祖父から異性交遊に関して厳しく戒められていたため、交際に発展するようなことはなかったらしい。 性に関する厳しい抑圧は、生真面目な伯父の性格には重すぎたんじゃないかしらね、と母は言っていた。

 

順調なエリートコースを歩んでいたように見える伯父だが、祖母によれば、東大の院へ進学してから、自分のやりたい研究テーマが見つからず悩んでいたそうだ。これは私の想像だが、博士課程に進んだ伯父は、そこで初めて挫折というものを知ったのではないかと思う。

 

日本の教育システムは、ある特定の知能に恵まれた人間にとっては、とても有利にはたらく。なぜなら、暗記力と理解力、論理的思考能力さえ高ければ、テストで良い点を取ることはたやすいし、それなりの評価が得られる。

 

しかし、大学院はそうではない。発想力、想像力、コミュニケーション能力という異なったベクトルの能力も必要とされる。今までお仕着せで与えられて来た課題の代わりに、自分で研究テーマを見つけ出し、それが社会に与える影響や自分がその研究をする意義、それまでになかった可能性、そういったものを理路整然と説明できなければ、自分の存在意義すらわからなくなる。子供の頃からいわゆるガリ勉だった伯父は、それらの能力をあまり開発できなかったのではないだろうか。

 

祖母によると、伯父は帰省した際に、一度だけ弱音を吐いたことがあるという。

「僕は小さい頃から(勉強が)良く出来る良く出来ると言われて来たけど、東京に行ったら僕なんか凡人や」

優秀な人たちの大多数が一度は感じる挫折だろう。まして伯父の場合、祖父の反対を押し切って博士課程に進学し、研究者になるという夢を追っていたのに、肝心のテーマが見つけられないというのは、相当なプレッシャーだったに違いない。

 

またこの頃ちょうど、父(伯父にとっては弟)と母が結婚し、母は私を身ごもった。父によれば、その頃から伯父は元気をなくし、ふさぎ込む様子が増えたそうだ。余談だが、私の父は伯父ほどずば抜けた成績ではなく、平均的な国立大学を出て、祖父の取引先の小さな会社に勤めていた。自分よりも格下だと思っていた弟が幸せそうな家庭を築いている姿は、未だ独身で異性交遊もままならず、ひたすら先の見えない研究のプレッシャーに苛まれる伯父の目にどう映ったのだろうか。

 

そして伯父は、発狂した。

 

研究室から、「様子がおかしい」という連絡が祖父のもとに入ったそうだ。祖父母が東京に駆けつけた時には、叔父は神経症を発症していた。身なりをはだけさせ、うつろな目をしながら、ろれつの回らない妄言を繰り返していたそうだ。祖父母によって実家に連れ帰られた伯父は、当時でいう「ノイローゼ」と診断され(今でいう神経症だ)、博士課程を中退した。

  

祖母によれば、それでも症状が落ち着いてからは、就職する意欲もあったらしい。祖父の会社で見習いのようなことをしたり、教員免許を取得しようとしていたようだ。しかしどれも続かなかったと聞いた。それは単なる甘えだったのか、自分が精神病患者だという負い目から来る自信のなさによるものだったのかは分からない。ただ、プライドの高かった伯父の性格上、何でも完璧にこなさなければ気が済まず、出来ない自分に耐えられず投げ出してしまうという行動に出てしまったのではないかと思う。

 

また、本来ならば物理学の研究者になりたかったのに、それ以外の「金を稼ぐ」という(いわば俗な)ことに対して自分の時間と努力を傾けるのを、過去の自分に対して裏切りのように感じていたのかも知れない。

 

現在であれば、精神疾患についても多くの研究があり、伯父のような状態の患者に対しても、治療法や対処法が様々に提案できるだろう。しかし1980年代初頭には、まだそこまで精神医学も発達しておらず、世間は「精神異常」「キチガイ」という目で伯父を見ていた(と母は言っていた)。

 

いったん踏み外したレールになんとか戻ろうとする努力もむなしく、叔父はそのまま40年近くをニートとして生きることになる