Sincerely's Blog

フェミニズムについて、ゼロから学んだことのメモ。

男女比が1:19のクラスで起こったこと

高校時代に体験したことについて書く。私はとある専門学科の生徒で、その科の生徒は3年間同じクラスだった。40人クラス中、男子はたった2人。38:2。なかなかの偏りっぷりである。そこで起こったことを、ジェンダー問題の観点から今振り返ってみると、なかなか興味深かったので書き残しておく。

 

私のいたクラスは、ニッチな専門学科の特色のせいか、異様にキャラの濃い人間が多かったせいか、いじめのようなものはなかった。趣味の似たものどうしや家の近いものどうしがゆるくグループを形成しつつ、席替えや課題でチームが分けられるたびに、違う顔ぶれの相乗効果を楽しんでいた。そして学校行事となると、クラス一丸となってやたらと燃えるかなり暑苦しいクラスだった。

しかしながら、男女比の著しい偏りはやはり無意識な性差別を助長する。私たちは仲の良いクラスだったけれど、それでも3年間を通して何度か「男子」と「女子」の問題に直面した。もうずいぶん前のことなので主だったことしか覚えていないけれど、以下のようなもの。

 

  1. 着替え問題
  • 体育の授業など着替えが必要な際、女子は教室を使い、男子は遠く離れた更衣室で着替えさせられる
  • 女子が着替え終わるまで、男子は教室に入れてもらえず、廊下で待つしかない。冬場の廊下は凍えるほど寒いが「男なんだからそれくらい我慢してよ」で黙らせる
  • 夏になると暑さに耐えかねた女子が(教室に冷房のない世代だった)、男子の目の前でスカートをパタパタさせたりブラウスの中に制汗剤を振ったりする。男子が「目のやり場に困る」と文句を言えば、「あんたたちは男じゃないから」と相手の羞恥心を意に介さない

   2.  性別役割の押し付け

  • 重いものを運ぶ時に「男子手伝ってよ!」と性別役割を期待する
  • リーダーシップを取れない、意見を主張しない、不器用など、女子の理想とする男子像に合わない男子は「イケてない」と批判される
  • 体育祭や文化祭の準備を手伝わない男子は、そうでない女子に比べてより激しく非難される。男子がリーダーシップを取るのが当たり前、という思い込みが女子の中にある
  • 2学年上の先輩(同じく男子2人のみ)がクラスの中でリーダーシップを発揮しているのを見て、「◯◯先輩たちはできてるのになんでうちの学年は…」と貶す

   3.  パワーバランスの不均衡

  • クラスで意見が分かれた際、「男子の意見はどうなの?」と、ことさらに「男子」ならではのコメントを求め、彼らの意見が決定を大きく左右する
  • 男子の意見が女子のそれよりも比重が大きく扱われることに対して、一部の女子から不満が出る
  • 文化祭などでは、「男子」が「男子であること」だけを理由に、良い役をもらったり目立つポジションにつけられたりする

当時の私は、というか私たちは、クラスの中で日々生じる諍いや不均衡に対して、うまく説明できる言葉を持たなかった。けれども、今こうして思い起こしてみると、2人の男子に多大な負担を強いていたなぁ、と思う。

 

強く印象に残っているのは、学級会で男子がつるしあげられた時のことだ。文化祭が目前に迫っていて、私たちは文化祭の目玉イベントである合唱コンクールのリハーサルに日夜励んでいたが、男子が練習にあまり出席しないことが問題視されていた。クラスの優勝がかかってるのに! 男子真面目にやってくれないひどい! というわけである。

 

「先輩たちのクラスは、男子が引っ張っていってまとまっているのに、なぜうちのクラスの男子はこんなにもやる気がないのか」

「私たちは男子のリーダーシップを必要としている。もっと引っ張っていってほしい」

女子たちは真剣に悩み、男子にもっとクラスにコミットしてくれるよう要請した。ほとんどの女子は、男子はただ気後れしているかめんどくさがっているだけで、女子からその存在を求められていることを知れば、やる気を出して頑張ってくれるだろうと期待していたのである。

 

しかし議論は意外な方向へ展開した。男子たちが反駁してきたのである。

「『男子やから』ってだけで、クラスを引っ張らなあかんのか?」

「正直、『クラスを引っ張ってほしい』って言われても、他に引っ張りたがってる人(女子)、いっぱいおるやん」

「こういう時だけ、クラスの一員扱いされるの腹立つわ」

「普段、俺らのこと無視するくせに」

「俺らのいうことなんか聞いてくれへんやんか」

そんなことない、こうして『男子の意見』を聞いてる、と言う女子に、男子がめずらしく感情的になって言った。

「都合のいい時だけ『男だから』っていうんやめてほしい」

「体育の着替えの時、前の授業が終わったらすぐ追い出されるやん? 俺らまだ廊下に出てないから待って、って言ってるのに、目の前で脱ぎ始めたりされるのほんま嫌」

おそらく、女子全員が意外に思ったと思う。男子は女子の着替え見れるのが嬉しいんじゃないの? 嫌なら見なければいい話なんじゃないの?

「見たくない。そりゃ、俺も男だから、そういうのに興味がないわけじゃないけど、それとこれとは別」

「目のやり場に困るし、そういうのを意識しなきゃいけないのが嫌」

「俺らが出て行くのをちょっと待っといてくれたらいいだけの話なのに」

「しかも俺ら、離れた更衣室までわざわざ行かなあかんのに、ちょっとくらい待てへんのかって思う」

要するに、男子は着替えの際の気まずさを聞き入れてもらえないことで、「クラスのフルメンバーとして尊重され、仲間に入れてもらっている」という感覚をずっと持てないでいたのである。

男子を非難していた女子は沈黙し、学級会は気まずい雰囲気につつまれた。

 

そこに、とある運動部のエースだった女子が発言した。彼女もほとんど応援合戦の練習には出れていなかったが、全国大会常連の彼女の不在を咎めるものはクラスにはいなかった。

「実は私も、部活の練習が厳しくて、文化祭の練習にあまり出れてないのを、申し訳なく思ってた。みんなは私が『運動部のエースだから』って何も言わずに受け入れてくれてるけれど、自分の都合を優先してクラスをないがしろにしているのは、私も男子も同じ。それなのに、男子だけを責めるのはフェアじゃないし、私もみんなに謝りたい」

部活で結果を出している彼女と、サボっているだけの男子とは次元が違うのではという意見もあったが、運動部の彼女は「クラスより自分の好きなことを優先しているという点では、私も男子も一緒」と譲らなかった。

 

男子を非難していた女子は「ごめん、そんなに嫌な思いをさせてるってわからなかった」と謝った。男子の1人は泣き出し、つられてクラスの半数以上が泣き出した(何かというとみんな泣く、つくづく暑苦しいクラスであった)。男子たちは涙ながらに言った。

「何をやっても『男子、男子』って言われるのしんどくなる時がある」

「数が違いすぎるから、正直みんな何考えてるかわからんくて、怖いねんて」

「みんなが、先輩の男子のことカッコいい、って言ってるのも知ってる。俺やって、あんなふうになれたらいいなって思う。けど、男子やからって、みんながみんなあんなふうに人を引っ張る才能があるわけじゃない」

 

「ごめんな、俺らあんなイケメンちゃうから! イケメンなりたいけど!」

最後の一言でクラスは爆笑に包まれたが、 今思い返せば、彼ら2人は本当に辛抱強く、頑張ってくれていたんだなぁと思う。

 

結局、その話し合いを通して、私たちのクラスには新しいルールができた。

<男子が教室を出たことを確認してから着替え始めること。その際男子を必要以上に急かさないこと>

<着替え終わったら、すぐに廊下の男子に声をかけて教室に入れてあげること>

<クラス単位での練習には、できるかぎり参加すること。無理な人には、放課後や休憩時間を利用して教えてあげること>

<嫌なことがあったら、言いにくくても我慢しないこと。風通しの良いクラスになる!>

 

その年の合唱コンクールでは、残念ながら2位に終わった。

しかし翌年の文化祭では男子もやる気を出して学年優勝、そしてその後の体育祭では、総合優勝と、数々の伝説を打ち立てて行ったのである(…というのは多少盛った表現だが、クラスの結束力とパフォーマンスのレベルはどんどん高まって行った)。

 

3年間何度も話し合いを繰り返し、卒業時にはクラス全員がお互いの個性を認め合い、その人をまるごと受け止めて愛せるような関係になっていた。退学者が多い学校だったにも関わらず40人全員が揃って卒業できたことを、私は誇らしく思っている。男子2人のことは友達として大切に思っているし、卒業して20年近く経った今もLINEで気軽にやりとりできる関係を維持している(…と思っているのは私だけ、という可能性もあるが)。

 

ちなみに卒業後知ったことだが、マイノリティ男子たちには彼らたちなりのネットワークがあり、男子更衣室で女子の文句を言っては、先輩・後輩で結束を固めて「クラスで女子にどう対処するか」というサバイバルスキルが連綿と伝授されていたそうである。

 

 

しかし、16歳の少年少女に解決できた問題が、今の日本ではどうして解決できないのだろう? 

言葉とジェンダーについて読んだ本3冊

前回図書館で借りてきた本を返したついでに、「ことば」とジェンダーに関する本を数冊借りてきたので、読書録を兼ねて紹介。

「私、文章を書いたり翻訳したりする仕事をやっているんですが、無意識に性差別を助長するような言葉遣いをしていないか不安なんです。そういったことを学べる本はありますか?」と司書さんに尋ねて、以下の3冊を紹介してもらった。

 

きっと変えられる性差別語―私たちのガイドライン

きっと変えられる性差別語―私たちのガイドライン

  • 作者: 上野千鶴子,メディアの中の性差別を考える会
  • 出版社/メーカー: 三省堂
  • 発売日: 1996/04
  • メディア: 単行本
  • クリック: 6回
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発行年が古いので、今ではあまり大手メディアでは見かけなくなった言葉(「マドンナ議員」「女史」「未亡人」など)も入っている。けれど、「女性◯◯」とか「美人◯◯」とかはまだ現役でいろいろなところでお目にかかるので、20年経っても変わらないところは変わらないんだなぁ…と思わせられる。

 

私は、自分でも記事を書くし、他の人が書いた記事の校正を担当したこともある。その際、差別を助長しかねないような表現に遭遇しても「ん? どうなんだこれ?」と思うことはあっても、日本語として間違ってはいない場合、それを指摘することは難しかった。(特に、エラいヒトに寄稿してもらっている場合、よけい言いづらい。)

でも、この本ではそれらが「なぜNGなのか」の理由をわかりやすく解説してくれている。また、それらの差別語に対する言い換えの提案も実際的。ただ、すべてが納得できるものばかりではない。たとえ政治的に正しくとも、日本語として聞いた時に違和感のあるものは使いづらいな、と思う。英語やフランス語でもこのあたり葛藤があるようで、S/heの表記とか、女性名詞・男性名詞の併記など、それぞれ模索しているよう。

 

本の構成に関して、

「性差別しないためにはどうしたらよいかを考えるリソース・ブックである。決して、機械的に規制・排除するための差別語リストではない」

とあり、「これを守れ!」とも「これさえ守っておけばOK」というものでもない、というスタンスをとっているのが建設的だと思う。 

 

メディアで働いていた時に、「記者ハンドブック」というのは使っていたのだけれど、

性差別語に関しては、まだ業界のコンセンサスができていないなぁ、という印象があった。私自身、筆が進まない時や時間がない時は、キャッチーな言葉や耳慣れた表現でついついラクをしてしまう傾向にあるので気をつけたい。

 

翻訳がつくる日本語: ヒロインは「女ことば」を話し続ける

翻訳がつくる日本語: ヒロインは「女ことば」を話し続ける

 

今回いちばん知りたかった「翻訳から生まれる(不自然な)日本語」についての本。「女ことば」だけでなく、「気さくな男ことば(『〜だぜ』『〜さ』など)」や、方言についての分析がとても面白かった。

ヒロインのセリフに「女ことば」をあててしまう訳、私もやってました。ハイ、すみません…。海外文学とハリウッド映画で育って来た人間には、もう染み付いているのです…。 翻訳された日本語が血肉化されている私みたいな人間には、そういった言葉遣いがしっくりくる、と感じられてしまうのが恐いところ。

あとは、字幕翻訳の場合、限られた文字数の中でキャラクターや背景を伝えようとする場合に、「女言葉」「男言葉」「方言」を使ってキャラを立たせた方が読み手に親切、という場合もある。たとえば日本のアニメで関西弁を話すキャラがその言葉によって「関西出身である」という情報を付与されるのと同じように、アメリカ映画の中で南部訛りの人物が出てきた場合、そこに発生している言語メッセージ以外の情報を、字幕の中でどう伝えるかという点が本当に難しいと思う。私は方言や訛りを聞くのは大好きだし面白いので、自分が翻訳する時はその雰囲気をできるだけ残したいと思う方だけれど。

翻訳者コミュニティではこの「方言キャラ」問題はわりとよく話題に上る。「◯◯弁をどう英訳する?」というのは意見が分かれるところ。そもそもアメリカ英語だと、各地方の訛りは日本語の方言のような明確な違いはなく、発音の違いがほとんどなので、文字化するのが非常に難しいというがまずある。(地域によってモノの呼び方が違う、というケースもあるが、それも日本語ほどのバラエティはない)

ついでに、話し言葉は地域性よりもその人の社会的地位や人種を表すことが多いので、うかつな訳をすると誤った印象を読者に与えかねない。なのであえて方言を訳さず、スタンダードな英語にする、という人が多い。英語で吹替えされている日本のアニメを見ても、方言をはじめ、お嬢様言葉やハカセ言葉も普通の英語に訳されている。

この本の中で取り上げられている、「風とともに去りぬ」の使用人の英語を東北弁(らしき訛り)の日本語に訳しているケースなんて、今やったらかなり問題になりそうだ。

あとは、「気さくな男言葉」の例が地味に面白かった。確かに「そんな喋り方する人、いる?」と思う。今度から翻訳をする際は、「言葉によるキャラ付け」がどこまで必要なのか、よく考えて訳したい。

 

ジェンダーで学ぶ言語学

ジェンダーで学ぶ言語学

 

 

最初の2冊が言葉や言い回しと言葉遣いの例を考察するものだとしたら、この本はそれらの言葉を生み出している背景に、より深く突っ込んだ内容。各章が専門の方による解説なので、様々な角度から考察されていて興味深い。「マンガ」「ドラマ」「恋愛小説」「オネエ言葉」「ていねい言葉」など、ふだん当たり前だと捉えていた言葉遣いに、「言われてみれば、不自然かも」という光を当ててくれる。

そこから「どうしてこうなったんだろう?」という背景を説明してくれる内容になっている。ただ、各章は短めでサワリだけという感じなので、やや詰め込み気味というか、走っている印象を受ける。言語学のジェンダー論的側面を網羅的に知りたい人には良い入門書だと思う。最初に上げた2冊よりは少し硬めな内容。

 

以上3冊、どれも面白かったし非常に参考になった。

いうまでもなく、差別語や差別表現はなくすべきだし、ポリティカル・コレクトネスにも配慮すべきだろう。ただ、言葉はどんどん変わっていくものだし、それを「完璧に」コントロールしようというのは無理な話だと思う。言葉の使い方を強制することは、突き詰めれば思想の統制につながる恐れもある。1984的世界のように。

 

それが、僕たちが生きてる世界さ。そうじゃないかい?(気さくな男言葉)

 

Explained: Netflix

クィア・アイ」を観るためだけにNetflixに加入しているのだけれど、最近始まった「Explained」が面白い。現代社会の様々な問題を、知識の無い人にもわかるように20分ほどで「説明(Explained)」してくれるドキュメンタリー・シリーズだ。ナショナルジオグラフィックあるいはディスカバリーチャンネルを凝縮して、Youtubeを振りかけた感じ。日本語字幕はまだ無いようだけれど、きっとそのうち付くと思うからついたらみんな見て。(Netflixは私を雇えばいいのに…)

 


Explained | A new series from Netflix + Vox

 

ひとつひとつのトピックについてはそこまで深堀りはしないけれど、テンポよく概論と争点をまとめてくれているので、テレビや新聞やネットを見て感じる「XXってどういうこと?」「何が問題なの?」という疑問に答えてくれる。テーマは人種格差から暗号通貨からK-POPまでと幅広い。私が面白いと思ったのは以下の5つ。

 

  • 「遺伝子操作」"Designer DNA"(エピソード2)
  • 「一夫一婦制」"Monogamy"(エピソード3)
  • 「女性のオーガズム」"Female Orgasm"(エピソード16)
  • 「ポリティカル・コレクトネス」"Political Correctness"(エピソード17)
  • 「なぜ女性は男性よりも低収入なのか」"Why Women Are Paid Less"(エピソード18)

 

特にエピソード18では、「男女の収入格差は、実際には男性vs女性の賃金格差ではなく、男性&子供のいない女性vs子供のいる女性の賃金格差である」という説明が印象的だった。あと、ジェンダーギャップ指数ランキング1位のアイスランドの事例、「男性にも育休を義務付ける」という法律。良いアイデアと思うのだけど、日本だと「じゃあ出世したいので子供つくりません!」ていう男性が多く出てきて逆効果になる可能性もある。皆が子供を作らず黙々とひたすら働き続ける社会…世紀末感漂うなぁ、と思ったけど、それってまさに今の日本なんだよな。あれ? だったらやっぱり男性への育休取得義務を導入した方がいいんじゃないか?

 

ともあれ、興味のあるトピックについてだけでなく、全く興味のなかった世界(タトゥーとか)をカンタンに解説してくれるのでとっつきやすいし、20分前後と短めなのでご飯を食べたりジムで自転車を漕いだりしながら気楽に見れる。授業なんかでも使えそう。

 

Netflixはドキュメンタリーの品揃えが悪かったのだけれど、こんなふうに他のネットニュース系メディアとコラボする形で面白いものが出てきて、いろいろ分析しているんだなぁと思う。あと、Netflixに加入してる方はみなさん「クィア・アイ」をぜひ観てください。

www.netflix.com

 

フェミニズムをゼロから学ぶために私が借りてきた本3冊

フェミニズムを学ぼうと思った直接のきっかけは、字幕を翻訳しているときに「あれ? これってポリコレ的にどうなんだろ?」と疑問に感じたことだった。ググってみたものの確固とした答えはなく、「ダメだ、ちゃんと勉強しなきゃ」と年貢を納めるような気持ちで近くの図書館へ。

 

私の住んでいる地域には男女共同参画推進センターなるものがあり、そこには情報ライブラリーとしてジェンダー問題に関する書籍やDVDなどが借りられる図書館がある。存在を知ってはいたもののこれまで訪れる機会は無かったのだけれど、午後9時まで開いてるのはありがたいと感じた。レファレンスの人に「この図書館のこと、どこで知ったんですか…?」と怪訝な顔で質問されるくらい人気(ひとけ)がなかったけれど。隠れキリシタンみたいだ。

 

「ジェンダー論に関してゼロから学びたいんですが、抽象的な理論とか長ったらしい歴史とか偏った主張とかではなく、初心者にわかりやすくニュートラルで、かつフェミニズムに関連する諸問題を包括的に網羅した入門書ってありませんか。なるべく発行年新しいもので。あと重くないやつ」という私の無茶ぶりにもかかわらず、司書さんが一生懸命調べておすすめしてくれたのが以下の本たち。

 

 

はじめてのジェンダー論 (有斐閣ストゥディア)

はじめてのジェンダー論 (有斐閣ストゥディア)

 

 タイトルがそのものズバリすぎて笑った。大学1年生のジェンダー論の教科書という感じ。語り口も大学の先生が教壇から喋っているようで読みやすい。知識がまったくゼロの状態の読者に、手取り足取り教えてくれつつ、自分で考えながら読ませるような構成になっている。これだけ押さえておけば、ジェンダーの話題になったとき怯まずにいられると思う。

 

よくわかるジェンダー・スタディーズ―人文社会科学から自然科学まで (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

よくわかるジェンダー・スタディーズ―人文社会科学から自然科学まで (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

 

 

やや大判で電車の中で読むのは難しいものの、内容的には私のニーズにぴったりだった。ひとつひとつのトピックに関しては見開きで2ページずつの紹介なのでそこまで詳しくはないけれど、それぞれの概要をつかむには充分。2010年代のジェンダー論に関係のある、ほぼすべてのトピックを網羅とはまではいかずともかなりカバーしているので、初心者にとっては地図を俯瞰するような気になる。参考文献をたどって自分の興味のある分野への手がかりになる構成になっている。これだけ押さえておけば、ジェンダーの話題になったとき相槌くらいは打てると思う。

 

ジェンダーで学ぶ社会学〔全訂新版〕

ジェンダーで学ぶ社会学〔全訂新版〕

 

 上2冊を読んでからこれを読んだので、「はいはい、知ってる知ってる」という感じで各章の内容はさらりと読み流した。こちらも大学1年生対象といった感じで非常に読みやすい。「はじめてのジェンダー論」と違い、こちらは各章ごとに執筆者が全員違うので、テイストがややバラけている感じはある。ゲストスピーカーを呼んで講義してもらっているような感じ。ただそれが逆に偏りがなくて良いと感じる人もいるかもしれない。現代の日本人が生活するうえで感じるジェンダー問題にトピックが絞られているので、「よくわかるジェンダー・スタディーズ」よりかは身近な内容。これだけ押さえておけば、ジェンダーの話題になった時質問くらいはできると思う。

 

以上、3冊の本はどれも出発点としてはとてもよくできていると思う。どれから読んでも良いと思うけれど、個人的なオススメの順に並べてみた。ジェンダーの話題になった時に意見を主張するほどの自信は、私にはまだない。ただ、自分の得意分野である翻訳に関しては他に面白い本を数冊読んだので、別エントリで紹介したいと思う。 

 

 

なぜフェミニズムって語りにくいんだろう

インターネットでの、特に日本におけるジェンダー論争を見ていると、なんだか頭がくらくらして厭世観が漂ってくる。

 

いや、わかる、わかるよ。男女とも不公平なこといっぱいあるし、おかしいと思うことには声をあげるべきだし、強い言葉でないと伝わらないこともあると思う。

 

けどさ、なんていうかあまりにも…非建設的だなぁという印象を受ける。相手をあげつらったりたたきのめしたりしないと気が済まないのか、男女とも。なぜこうなってしまうのだろう? と考えてみた。自分が何かについて発言するときのチェックリストとして。

 

  1. フェミニストのイメージがよくない。フェミニストは「モテない女のひがみ」「ヒステリー」「ミサンドリー」というネガティブなイメージで叩かれることが多い。なぜかというと、実際にそういう側面も否定できないからだと思う。男性優位社会で優遇されるのは男性にウケの良い要素(美人、若い、従順など)を持った女性だ。結果として、そうではない(モテない)女性は不満を抱くことになる。そしてその不満を論理的に述べても「かわいくない」「黙れ」と抑圧されるので、強い言葉や力を使わないと声を聞いてもらえない。そこで、一瞬でも注目してもらうためには、叫ぶしかなくなってくる。それがヒステリックに聞こえてしまうとしても。そして、自分を否定し傷つけ続けてきた対象を憎まずにいられるような聖人は、そうそういやしない。
  2. ネット上では、画面の向こうにどんな人がいるのかわからないから、仮想敵をつくりやすい。自分が今まで接してきた男性/女性のいちばん嫌なイメージの合体バージョンを想定してしまう。(いつも思うけれど、文章上での印象と実際に会った時の印象は滅多に合致しない。私は以前書いた文章を読んでくれた人から、「すごく綺麗な心の持ち主だと思いました」と褒めてもらってものすごく申し訳ない気持ちになったことがある。)
  3. ジェンダー論を語るとき、どうしてもセックスにまつわる個人的な体験に基づいて話しがちだ。そして、私たちが生涯に取得できるサンプル数はそれほど多くない。多くの人は結婚も子育てもせいぜい2回くらいしかしないし、家族以外の異性と付き合って相手を深く理解する機会は人生に3,4回あればいいほうだ。性差別も、性犯罪も、セクハラも、一度や二度であれば我慢してやり過ごしてしまうか、自分に非があるのだと思い込んでしまう。
  4. 大多数の日本人は、ジェンダーについて論理的に建設的に語り合う言葉や方法を知らない。あえて主語を大きくとったけれど、私が受けてきた、中学での性教育は生物学的な知識の伝達にとどまっていたし、高校での倫理の授業は歴史と公民を合わせたような内容だった。どちらも1990年代の公立校だ。今の世代は少し違うのだろうか? 受験に直結しない科目が、クラスで活発にディスカッションされるような環境が整っているとは想像しづらい。
  5. いざジェンダー論を学ぼうと思っても、気軽にジェンダー論を包括的に説明してくれている本やDVDが…無い。出発点になるようなニュートラルな教科書。新書とか専門書ではなく、もっとカジュアルに5~15分くらいでアホにもわかりやすく説明してくれるような入門ガイドがあればいいのに、と思う。"Feminism for Dummies"みたいな(日本でいう「やる夫で学ぶ」的な)。でもタイトルに「バカでもわかる」とか入れちゃうと日本では売れないのだろうか。ピンクのカバーとかつけちゃうのかもしれない。うーん。

こうして見てみると、1から5までが見事な負のスパイラルになっているなぁと思う。フェミニストの皆様、お疲れ様です、と言いたい(これが小学生並の感想、っていうやつか)。

 

幸か不幸か、私は現在無職なので、のんびりと自分のペースで自分の思うことを書いていこうと思う。のんびりアクティビスト。

 

フェミニストをゼロから学ぶにあたって、私が借りてきた本については、

sincerely.hatenablog.com

で書こうと思う。

このブログについて

このブログについて

このブログは、ド素人の一般人がフェミニズムについて調べたことや考えたことを、メモ代わりに書き残していくブログです。

以前書いていた匿名の個人ブログを少し変えて、内容をフェミニズム関連に絞って続けることにしました。

炎上するのも嫌だし、個人情報が特定されるのも怖いので、コメント欄は設けていません。もし何かコメントしたい場合は、ご面倒ですがメールを送ってください。

 

 

フェミニズムを勉強し始めた理由

「モテないから」が正直な理由なのですが、それ以外にも、仕事上ポリティカル・コレクトネスに配慮する必要性があることと、次の世代が生きやすい時代になってほしいと願っていることも大きな理由です。

 

もともと、ジェンダー論についてある程度の知識をつけておかなくては、と感じてはいました。しかし大学では「めんどくさいヤツと思われるのも嫌だしなー」という非常に後ろ向きな理由で履修せず、社会人になってからは「社会とはそういうものだしなー」と現状を受け入れることでやり過ごして来ました。今も割とそう思っています。怠け者かつ豆腐メンタルなので、できればめんどくさそうなことには突っ込まず、波風立てずに安穏にやり過ごして家で湯豆腐でも食べていたい人間です。

 

ただ、自分自身、ジェンダー問題が原因で嫌な経験をしたことが何度もありました。その中で、昨今の#Me Tooムーブメントに乗っかって、日本でも状況が改善されていくといいなと思い、独学で勉強しはじめた次第です。完全に流行りに乗っかってます。でも2018年現在、ポリコレ的な知識を身につけておかないと仕事がもらえませんし、自分が知らず知らず誰かを傷つけるのは、自分が叩かれるよりもっと嫌です。

 

個人的な体験はあまり語りたくないですが、セクシュアル・ハラスメントで嫌な思いをしたことや、自分自身が(それと気付かずに)ジェンダー規範の押し付けをしてしまったことも、書ける範囲でブログに書くことで、可視化・意識化しやすくなるのではと思いました。

 

関心のあるテーマ・トピック

翻訳やPRを手がけることが多いので、言葉遣いにおける無意識のジェンダー・バイアスにいつも気をつけています。フェミニズムを勉強したいと思ったのも、ある字幕を訳す時にうまい訳語が見当たらなかったことがきっかけでした。他には、

  • 翻訳語における「女ことば」問題
  • 性差別語や慣用表現
  • ポリティカル・コレクトネスへの社会の反応
  • 洋画の邦題とポスター改悪
  • 役割語
  • 女性キャラクター造形
  • キャッチコピーとターゲット

などに興味があります。あと、海外の映画やドラマを見るのが好きなので、その分析などもしてみたいです。

 

私について

フェミニズムについてほとんど何も知らないド素人の一般人。ヘテロセクシュアルのミレニアル。関西の政令指定都市出身。海外在住経験4年。現在フリーランスという名の無職。

 

このブログではSincerelyという名前を使っています。匿名でしか書けないことや、匿名だからこそ書けること。自分ひとりの胸の内にはしまっておけないようなこと。誰かにきいて欲しいこと。ささやかだけどもの申したいこと。

そういったことを自由に書ける場が欲しいと思ったので、少しずつではありますが、書いていきたいと思います。

 

ハウルの動く城、あるいはエリート男性に嫁いだ自信のない女性の話

金曜ロードショーで「ハウルの動く城」を見ました。11年前、2人で映画館に観に行ったのを懐かしく思い出しながら妹と鑑賞。今日あらためて見てみると当時とはまた違った見方ができて(スレたとも言う笑)、面白かったので私なりの考察・分析を書き出してみます。

 

劇場公開当時私は22歳、妹は17歳でした。見終わった時は「あぁ、これは女性向けのお伽話なのね〜。自信がないけど心が綺麗な女性がなぜかイケメンに惚れられ、家事をがんばってたら『君は綺麗だよ』と言われて幸せになる少女マンガパターンかぁ」と思っていたのですが、そんな甘っちょろい話ではありませんでした。そんなお伽話ではなく、これはごくごくふつうの、現代人のお話なのだと今日わかりました。それは言ってみれば、「伝統的価値観に縛られたこじらせ女子が、心に闇を抱えたエリート男性に嫁ぎ、激務で鬱病になっちゃった彼の心に愛を取り戻させて家庭を立て直す話」です。

そう見て見ると、もうわかりやすいくらいわかりやすい話でした。昔見た時は難解だと感じていたのが嘘のようです。

 

まず、各キャラクターがこの物語の中でどのような役割を担っているのか、何を象徴しているのかを書き出してみます。

<キャラクター分析>

ハウルの城:ハウルの心のメタファー。

これは言うまでもないと思います。「家はその人を表す」という通り、ハウルの城は継ぎ接ぎだらけで、見た目は恐ろしく、内部はぐちゃぐちゃです。今にも壊れそうだけれど、実際は「はりぼての城」だと宮崎駿監督は言っています。およそ人が住むような場所には見えない、機械的で冷たい城は、ハウルという人間の抱える脆さと不器用さをよく表しています。

 

カルシファー:愛、情熱、温かい心の象徴。ハウルの人間らしい心の一部。

この物語の中で、最も大切なのがカルシファーという存在です。カルシファーはハウルの一部です。「おいらとハウルは、一心同体なんだ」とカルシファー自身が言っています。カルシファーの声は、そのままハウルの心の声でもあります。

城(=崩れそうなハウルの心)を動かしているのはカルシファーという熱い情熱です。それは、戦争でボロボロになって帰って来たハウルが、カルシファーの前でぐったりとしているところからも見て取れます。仕事で疲れて帰って来て、「自分はなぜこんなことをやっているんだ…」と、消えそうな情熱を前に、自問自答しているのです。

 

ハウル:才能にあふれたイケメンエリート。でも仕事が激務すぎて鬱病発症。

ハウルは「星にぶつかった少年」だと宮崎駿監督によって表現されています。「星」とはすなわち、「才能、環境、運」。それらにぶつかったハウルは、いわゆる「持っている」人です。「天賦の才」という言葉があるように、こういう好運は、本当に流れ星にぶつかるような確率でしかありえません。でも、世の中にはそういうものすごい才能を持った人がいるのです。

ハウルがカルシファーと契約した時、ハウルは「カルシファーを助けようと思って」飲み込んだそうです。もともと、ハウルは心優しい少年だったのでしょう。自分に才能があることがわかり、ハウルはその才能を活かして世の中に貢献したいと思いました。しかしそれは、魔法使いとして桁違いの能力を得る(=エリートとして出世し、世の中を動かす人になる)代わりに、自分の温かい心を悪魔に差し出す(=人間らしい生活を諦める)ということでもあったのです。

 

戦争:ビジネスや政治など、いわゆる「外の世界」=「男性主体の社会」。

この物語の中では、戦争は日に日に激しさを増しているようですが、それが何のための戦争なのか、何をやっているのかよくわかりません。企業戦争や政争など、人間らしさを失い、ただひたすら相手を傷つけ戦うことを要求される、意味も終わりもない愚かしい社会の争いのことを揶揄しているのだと思います。

ハウルはエリートであるがゆえに、毎日ボロボロになるまで働かされ、仕事によって心が蝕まれて行き、魔王になってしまいそうに追いつめられています。大きな黒い鳥の姿になるのは、スーツを来て世界を飛び回るビジネスマンといったところでしょうか。

 

サリマン:ハウルをエリートに育て上げたモラハラ教育ママ。

サリマンはハウルの母です。ソフィーに対する高圧的な態度は、「私のかわいい息子に手出しやがってこの若い女が!」という、気に入らない嫁に対する鬼姑そのものです。サリマンはハウルの才能に目を付け、エリートとしてハウルを育て上げました。それこそが彼女が王国(=社会)で力を得るための手段だったからです。ハウルを戦争という激務に追いやっているのも彼女です。でも、母親らしい勘で、ソフィーがハウルを心から愛していることには気付いています。

 

ちなみに、王宮でサリマンの部屋に辿り着くまでソフィーと荒れ地の魔女が階段を登らされるシーン。あの無駄に高い階段はサリマンの社会的地位の高さを表していると同時に、彼女のプライドの高さも表していると思います。サリマンと腹を割って話すには、彼女のプライドの高さまで歩み寄ってやらなければならないという暗喩です。もともとそこまでプライドの高くないソフィーは、自力で何とか階段の上まで辿り着きますが、同じくプライドの高い(=余分な脂肪をたっぷり身につけた)荒れ地の魔女は、そのプライドのせいで死にそうに大変な思いをするようです。

 

国王=息子には無関心なハウルの父。

国王がハウルを見て「わしの影武者か。今度の影武者はよくできているな」と言うシーンがあります。国王はサリマンが育てた息子であるハウルに対して、自分が死んだ後の影武者、つまり跡継ぎの一人くらいにしか思っていません。国王は戦争にしか興味がないのです。

 

ソフィー:伝統的な価値観に縛られたこじらせ女子。

ソフィーは「女は若く美しくなければ価値がない」「自分はブスだから掃除婦や帽子職人(裁縫)や料理をやってブスという欠点を補わなければならない」と思い込んでいます。こういった自信のなさは、程度の差こそあれ、ほぼすべての女性に植え付けられているコンプレックスでしょう。また、ソフィーは「私は長女だから」と、自分の人生を主体的に選択することから逃げています。これは旧来的な価値観に縛られていることの表れです。

 

ベティー:若くて可愛いアイドル的勝ち組女子。

ソフィーとは逆に、妹のベティーは男性から人気があり、ちやほやされて仕事場でもそれなりに成功しているようです。「若くて可愛い女にしか価値がない」という価値観が支配する社会の中で、ベティー は幸運にも可愛く生まれ、そしてその魅力を自己実現のためにいかんなく利用しています。アイドルや女子アナ的な男ウケの良いタイプ、自らの「女らしさ」を武器にして世の中を渡っている女性といえるでしょう。こういう妹が身近にいることで、ソフィーのコンプレックスはますます強められています。

 

ソフィーにかけられた呪い:「ババアに価値はない」という価値観。セクシズム。

ソフィーにかけられた呪いは、「簡単には解けない」と荒れ地の魔女は言っています。

荒れ地の魔女を目の前にしたソフィーは、相手の美しさと自信に打ちのめされます。そしてまた、「こんな美しく凄みのある人でも、ハウルに捨てられたんだ」という現実を知り、「自分もいつかはハウルに捨てられる」と思い込みます。そしてソフィーは、自信をなくして老女になってしまうのです。

そしてこの、「ババアには価値がない」=「女の価値は若さと美しさだけ」というセクシズムは、そのまま「女は男に愛されるべきもの、男に庇護されるべきもの」という価値観に結びついています。この旧弊的な価値観を信じてしまったことが、ソフィーにかかった呪いです。

 

荒れ地の魔女:ハウルの元愛人美魔女→精神を病んだ老女

荒れ地の魔女は、ソフィーとは対極の女性です。美しく、能力もあり、女性としての自分の魅力に自信を持っています。ベティーのように男性に媚びるタイプではなく、男性を支配するタイプです。彼女は言うなればエリート男性を手玉にとる銀座のママのような感じでしょうか。ハウルが「面白いと思って近づいたんだけど、恐ろしい人だった」と述べています。彼女はハウルの持つ才能と、それに付随する富や権力を欲していますが、ハウルの本当の心(=城)には気付いていません。

彼女はハウルがソフィーのような冴えない一般人女性と結婚したのを知り、ソフィーをバカにします(「貧乏くさい店、あなたも貧乏くさい」という台詞)。

しかし、サリマンというハウルの母親によって、自分の本当の姿を明るいランプで照らされます。それは、老いさらばえてもはや美しくなくなった姿でした。見たくなかった自分の醜い姿を直視した荒れ地の魔女は、発狂して精神症を発症します。

しかし、自分の本当の姿を知り受け入れたことで、彼女はハウルの城(=心)の中に入れるようになります。そしてハウルの人間らしい心(=カルシファー)を目にして、「綺麗ねえ」と感心するのです。

 

マルクル:ハウルの連れ子。荒れ地の魔女との間に出来た子供。

ハウルを慕っており、魔力も多少は使える(=才能が遺伝している)ことから、マルクルはハウルと誰か別の女性との間に出来た子供だと思います。マルクルがソフィーにしがみついて「僕たち家族?」と訊ねるシーンは、継母に甘える子供のそれにしか見えません。

ではマルクルの実の母親は誰か?と考えたのですが、どう考えても荒れ地の魔女にしか、登場人物の中にそれらしい人物が見当たりません。荒れ地の魔女のハウルに対する執着、ハウルがマルクルと同居している理由、そしてソフィーがマルクルに「おばあちゃんのこと見ててね」と再三依頼する態度を考えても、やはり荒れ地の魔女がマルクルの母親なのではないかと思います。

そう考えると、荒れ地の魔女のまじないの紙がソフィーを介してハウルに届けられるのは、ソフィーとの再婚を知った荒れ地の魔女からの、「再婚相手に私たちのことバラすわよ」というハウルへの脅しとも読み取れます。「テーブルの跡は消せても、呪いは消せない」というハウルの言葉が意味深です。そしてこの時に、ソフィーは荒れ地の魔女とハウルとのただならぬ関係に感づいています。

 

カブ:自己評価の低さをソフィーに救われた、弱者男性。

ハウルほどではないにせよ、カブも真の姿はそれなりにイケメンの王子様です。でも彼は、呪いによってカカシにされていました。木偶の坊として、社会から見捨てられていた存在です。いわば、自分で自分のことを役立たずと思い込み、引きこもりになっていたような状態です。

カカシという「どこへも行けない」「人の形をしているけれど、人ではない」という存在は、「やりたいことがわからない」「自分が何者なのかわからない」という、モラトリアムな現代の若者のようです。

でもソフィーは、彼を杖として甦らせようとしました。カカシの木の部分(=人間の本質)に着目することのできるソフィーの能力と、結果として自分の利益にはならなくても向きを直してあげるという優しさは、ソフィーの良い部分です。

見捨てられていた自分の存在に気付いてもらえたカブは嬉しかったのでしょう。自分にもできることがある、やれることがあると気付いて自信を取り戻したカブは、その魔力(=才能)を使って、ハウルの城へソフィーを案内します。

カブはハウルの城の場所を知っていますが、中には入れません。それは、ハウルの危うさを知ってはいますが、心の中に踏み込めるほどには親しくない関係を意味します。

ハウルほどの才能はなくとも、カブもまた心の優しい純粋な男の子なのかなと思います。自分と似たような境遇にあるハウルに、カブは自分を助けてくれたソフィーを紹介します。つまり、「彼女は男性の肩書きや外見に惑わされない女性だ」「人助けをする優しさもある」「君たち一緒に暮らしたらうまく行くよ」と、二人の仲を取り持ってくれたわけです。

 

ヒン:サリマンの父=ハウルのおじいちゃん?

ソフィーが過去のハウルに会いに行く時、ヒンも一緒に付いて来ます。いわば過去への道案内のような役目を果たしています。これは、ハウルの過去を知る人という意味に違いありません。そして、サリマンから受けているぞんざいな扱い、おじいちゃんっぽい外見を考えると、サリマンのお父さん、つまりハウルのおじいちゃんかなと思います。(犬並みの存在…かわいそう笑)

 

 

<ストーリー分析>

さてそれでは、上記のキャラクターを踏まえて、主なシーンごとにストーリーを解読していこうと思います。

 

  • なぜハウルはソフィーに惚れたのか?

ソフィーが男性からの誘いを断って、自分の道をまっすぐに進もうとしていたからです。ソフィーは妹の店に行く途中、男性2人にナンパされます。怖じ気づきながらも、ソフィーはきっぱりと、「通して下さい。行くところがあるんです!」と2人に対してはっきりと自分の意志を主張します。これは、「何があっても自分の信念を枉げない、障害があっても突き進む」という、自立した女性の姿を感じさせます。その姿にハウルは惚れ込んだのでしょう。

また、ソフィーのことを単なる性欲のはけ口としか見ていない男性に対して、きっぱりとNOを突きつけています。独身のソフィーですし、相手は見た目カッコいい軍人ですから、「ちょっとお茶くらいなら…」と言っても不思議はありません。本当はソフィーの自己評価の低さがNOを言わせたのですが、ハウルの目には、男のステータスに惑わされない芯のある女性と映ったのでしょう。

 

  • 出会ってそっこうデート、そしてたぶん初エッチ?

ハウルはソフィーのような自立した女性を求めていました。これぞと思った女性に対して、ハウルは手が早いです。あっという間にデートに誘い(=一緒に歩き)出しています。

ここで、荒れ地の魔女の使いであるゴム人間たちがうようよと出て来ます。これは、ハウルを狙っている女性たちの象徴です(笑)。彼女らはハウルの外見や才能にしか興味がありません。彼女らの手を離れるため、ハウルはソフィーを連れて空へ飛び上がります。これは二人の関係が一段階上のレベルに上がったという恋心のメタファーであり、もっとあけすけに言うなら、二人が初めて結ばれた暗示でもあるかなと思います。

 

  • 現実的な妹

ソフィーは妹に「ハウルとしちゃった!」と相談します。リア充の妹は姉に「それは遊ばれてるだけだよ!」と現実的なアドバイスをします。自己評価の低い姉はそれを受け入れ、独りで仕事をして生きていこうと決心します。

 

  • 元愛人が乗り込んで来る

その世、ソフィーのところへ荒れ地の魔女(=ハウルの元愛人)が乗り込んできます。彼女はソフィーに「女はババアになったら終わり」という、解くのが非常に困難な呪い(=思い込み)をかけます。この時に、ソフィーは自分の孤独な将来を走馬灯のごとく見たのでしょう。誰にも愛されず、子供も作れず、独り死んでいく姿……。そして、ハウルのようなイケメンに愛されることなど、自分には金輪際ないのだと思い込みます。そして、自ら老婆のような姿になってしまうのです。

 

  • モテない女性の寂しさを表す山道

ソフィーは街を出て山に向かいます。この時のソフィーは半ば死んでもかまわないくらいのやぶれかぶれの状態です。自分にとっては初めての相手だったのに、ただ遊ばれただけ。そしてたぶんあんな素敵な恋はもう二度となく、自分はババアになって独りで死んで行くんだ……という絶望。

吹きすさぶ風が「寒い」という山道の描写、街(=社会)から距離を置こうとしてもなかなか離れられないしんどさ……独身女性の孤独さが非常によく表れているシーンです。

 

  • カブとの出会い

ソフィーは山道で、カブを助けます。これは、寄りかかる相手(=杖)を探していた時に、逆に困っていた境遇の人を助けたことになります。この、「自分も大変な時なのに誰かに親切な行動をする」というソフィーの利他的な善行が、後でソフィーを救うことになります。ソフィーの優しさのおかげでカブは元気を取り戻し、ソフィーをハウルに引き合わせてくれます。

 

  • ハウルの城(=心の中)に入る

カブの助けのおかげでハウルと再会でき、無事に同棲までこぎつけたソフィーですが、自分のことを「掃除婦」だと言ってしまいます。女性としての価値に自信のないソフィーは、異性と同棲するのに自分を「恋人」だと自分で認めることができません。ハウルもハウルで、自分の心の中に入って来た女性を、恋人だと最初は認めません。でも、ソフィーがやってきてくれたおかげで、ぐちゃぐちゃだったハウルの心の中は綺麗に片付き、生活にうるおいが出るようになります。

 

  • バスルーム=カッコつけたい心理

「バスルームいじった?!」とハウルは激怒します。バスルーム=裸になる場所&トイレ=いちばん恥ずかしい部分。ハウルにとって、いちばん見られたくない場所は「髪を染める=カッコ良く見られたいという心理」でした。その部分をソフィーに見られてしまったハウルは、恥ずかしさのあまり溶けてしまいます。

でも、この一件を通してソフィーはハウルの(文字通り)裸の部分を見ることになり、それが二人の関係を少し進展させます。完璧だと思っていたハウルにも、実は人間らしい部分があった。その発見は、ソフィーにとって「ハウルも一人の人間なんだ」と気付かせるきっかけになったことでしょう。

 

  • たぶんセックスレス

ハウルがソフィーの寝顔を見つめる場面があります。ハウルはソフィーを愛していますが、ソフィーが自分から求めてこない限り、手を出そうとはしません。(あるいは、そういう欲望を必死で我慢しているのかもしれませんが。)

なぜなら、もしハウルがソフィーに肉体関係を求めてしまったら、自己評価の低いソフィーは城から追い出されるのを恐れて嫌々でも受け入れてしまう恐れがあるからです。そうなってしまったら、二人の関係は恋人同士ではなく、「家に置いて食わせてやる代わりに掃除とセックスの相手をしろ」という、ものすごく旧時代的な男尊女卑的関係になってしまいます。

頭脳明晰なエリートであり、フェミニストでもあるハウルは、そんな結婚生活は望んでいません。しかし、ソフィーにかけられた「女は若くて美しいうちしか価値がない、そうでなければ掃除婦をするしかない」という呪い(思い込み)は、ソフィーが自分で気付いて解くしかありません。ハウルはそれをじっと待っているのでしょう。(不憫だなぁ、ハウル…)

 

  • サリマン(=実の母親)に紹介

激務でクタクタのハウルを見かねて、ソフィーは「仕事やめたら?」と提案します。そんなことしたらサリマンママが怒る、と弱気なハウル。サリマンの王宮(=ハウル実家)に乗り込むソフィーに、ハウルは指輪を与えます。これはもちろん、結婚指輪の意味です。男性が女性に指輪を与えるのに、それ以外の意味はありえません(お守りが目的なのであれば、ペンダントやブレスレットなど、他にいくらでも考えられます)。

指輪をはめるのは、「自分の配偶者として、公式に認める」という意味です。そして王宮から逃げ出す時は、結婚指輪がハウルの城(=心)に帰って来る道標となります。

 

  • 引っ越し=マイホーム購入

サリマンと対決してくれたソフィーを喜ばせるために、ハウルはがんばってマイホームを購入します。しかもドレスを買ってあげたり、わざわざ実家のそばに家を建ててあげるくらいの優しさです。ハウルの心の中も綺麗に整頓され、新しい生活に向けて意欲が湧いていることがわかります。

 

  • 「ソフィーへのプレゼント」=ハネムーン

ハウルが自分の子供の時に住んでいた場所にソフィーを連れて行くのは、旅行のメタファーだと思います。この時の思い切りロマンチックな雰囲気、夢のような風景はまさにハネムーン。でもそこに、戦艦(=仕事の電話)がやってきて、雰囲気をぶちこわします。ストレスが限界に来ているハウルの様子をソフィーは目にしておののきます。

 

  • 「守らなければいけないものができた」ハウル

ハウルは戦争に向かいます。ソフィーを愛するようになったハウルは、自分の仕事にやりがいを見いだします。でもそのせいで、心身ともにボロボロになっていくハウル。ソフィーはハウルに、仕事を辞めさせようとします。

しかし、それまで仕事で支えられていたハウルの心(=城)は、自分の心に素直に行動し始めたとたん、ガラガラと瓦解していきます。重荷を降ろして行ったともとれますが、逆にエリートでなくなった自分に自信をなくしていったとも読み取れます。

 

  • ソフィーの髪の毛は何を意味するのか

「自分の身体の一部を与える」というのは、とても重大な意味を持ちます。しかも、髪の毛というのは女性らしさを象徴する部分です。それを受け取ったカルシファー(=ハウルの心)が、熱く燃えたぎり力を発揮するのも意味深です。愛情や金銭的協力という読み取り方もできますが、男性がいちばん愛情を感じられるのはやはりセックスを通してなので、ソフィーがセックスによってハウルに活力を与えたと解釈できます。ソフィーがカルシファーを褒めるのも、妻が夫をおだてて何かをさせる姿にしか見えません。

 

  • ハウルの心を欲しがり、すがる荒れ地の魔女

荒れ地の魔女は神経症を発症し、ソフィーに介護してもらっていましたが、ハウルの愛情が欲しくなりソフィーからハウルの心を奪おうとします。それは色気によってたぶらかすのではなく、老いさらばえた姿で哀れみを誘うことで、彼の同情を惹こうとするものでした。

しかし、それはハウルの過去の傷をえぐるものであり、荒れ地の魔女自身をも傷つけるものでした。それを止めようとしたソフィーがかける水は、ハウルの心に致命的なダメージを与えてしまったことを意味します。「あんたたち昔付き合ってたんでしょ!知ってんのよ!」とでも言ったのでしょうか。あるいは二人の抜き差しならない場面を見てしまったとか。

いずれにせよ、昔の愛人とボロボロに傷ついた男とそれでもなんとか家庭を維持しようとする妻との、すさまじい修羅場だったのだと思われます。

 

  • 結婚指輪を見つめて、ハウルの過去に行き着く

ハウルの城(=心)は割け、家族もバラバラになってしまいました。絶望したソフィーの姿は、大喧嘩した後の部屋に佇む主婦のようです。でもそこで、ソフィーは結婚指輪を見つめ直し、ハウルがどうしてこうなってしまったか知ろうとします。過去を知るヒンが、ソフィーを案内します。

 

  • ハウルに依存していた自分に気付いたソフィー

ハウルの少年時代を見たソフィーは、彼がずっと、心(=カルシファー)を自分から切り離して生きて来ていたことを知ります。自分が今まで話しかけていたカルシファーこそが、ハウルの心なのだと気付いたのです。

本当は、ハウルは安らげる場所を求めていた。自分の真の姿をわかってくれる人を待ち望んでいた。それなのに、ソフィー自身が自立していないという事実が、ハウルにとって重荷になっていた。ソフィーは自分が「ぐずだった」=「受身だった」ことに気付きます。

自立とは、自分のありのままの姿を受け入れ、他者から何を言われても自信を持って自分を愛し抜くことです。「ババアに価値はない」という他人の価値観を受け入れてしまっているソフィーには、常に自信がありませんでした。ハウルは、そんなことを一言も言ったわけではないのにも関わらず。

ハウルは素のままの自分を愛してくれていたのに、自分に自信がないために老婆の姿に甘んじていた。本当は自分もハウルを愛しているのに、拒否されることが怖くてその気持ちと向き合うことから逃げ、ハウルに思いをきちんと伝えようとしていなかった。そして自分の臆病さが結果としてハウルを追いつめてしまったということに、ソフィーはやっと気付いたのです。

過去から未来へ戻るトンネルの中で、ソフィーは「自分で歩くから」と泣きます。最初にハウルと空中散歩をした時、ハウルに「歩き続けて」と、自分の足で歩くことを教えられたことを思い出していたのです。ハウルが求めていたのは城の中で家事をするような女性ではなく、自分と一緒に空中を歩いてくれる女性なのだと認識したソフィーは、自立した女性になることを決意します。

 

  • 窮地を救ってくれたカブ=友人?

ハウルは表情がなく、もう廃人のようになっています。城はボロボロになり、板一枚になって崖を急降下して行きます。ハウルが鬱病になって家が崩壊し、生活レベルが急降下したという描写なのかなぁと思います。そこで身を挺して救ってくれたのがカブでした。カブはおそらく、ソフィーへの友情から何らかの形でハウル一家を援助してくれたのでしょう。

カブの誠意に感謝し、ソフィーはカブにキスします。この場面は、それまで男性としての自分に自信がなかったカブが、女性に認められることで、男性としての自分にOKを出し、人間らしさを取り戻すという意味なのではないかと思います。

ソフィーたちを助けたことで自信を取り戻したカブは、自分にかけていた「役立たず」という呪いを解くことが出来、王子に戻ります。

 

  • 愛を告げるソフィー

ソフィーはずっと、自分は美しくない、価値がないと思い込んでいました。「若くて美しい女にしか価値がない」という思い込みは、そのまま「女は男に庇護され、愛されるべきもの」「男は外で働き、女は家庭を守るのが当然である」という古い価値観へと繋がります。それは、ハウルとソフィーが本当に自分たちらしく愛し合うことから二人を遠ざける「呪い」でした。

「女から男に愛情を伝えるのは間違っている」という、古い価値観を捨て去ったソフィーは、自分に素直になってハウルに真心からの愛情を伝えます。 ソフィーはここにきてやっと、あるがままの自分の姿を受け入れ、ハウルに心を取り戻させます。

 

  • 空を飛ぶ城=海外移住?

エンディングでは、新しい城に乗って空を飛んで行くハウルたちが描かれます。しがらみを取り去り、戦争という激務の仕事を辞めて、新天地へと旅立って行く姿は、日本を捨てて海外移住するエリートサラリーマンの姿に見えなくもありません。洗濯物がはためいているのも、かつての恐ろしげな外観の城ではなく、家庭を愛する人間に生まれ変わった意味ととれます。一度は姿を消したカルシファー(情熱、才能)が、ふたたびハウルのところへ戻って来るのも象徴的です。ハウルの心が軽くなったんだなぁと思わせられるラストシーンでした。

 

以上、ざっくり&むりやりな分析を行ってみました。いろいろ、牽強付会なところもありますが、この読み方をすると自分の中ではストーリーがしっくり来て納得することができ、面白かったです。